音楽療法の「時間」をめぐる断片的エッセイ 1) (生野) Fragmented Essay around "Time" in Music Therapy 1)

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#プロセスとしての時間
生野 里花
お茶の水女子大学基幹研究院研究員。アメリカ音楽療法協会・日本音楽療法学会認定音楽療法士、公認心理師。野花ひととおんがく研究舎主宰。
区分けできないセラピーの時間 Time in Therapy Unable to be Clearly Categorized
私は、音楽療法士としてCl.と関わる期間を自分で決められたことはほとんどなく、何らか外の理由で終結がやってくることが多い。ということは、どのCl.とのセッションも「目標」に対して「完結」することなく終わっており、「やりきることができなかった」「中途半端に終わってしまった」ということは常につきまとう。
ただ少し距離を置いてセラピーというものを眺めたとき、私にはこんな感覚もある。「やれたこと」「やれなかったこと」「やらなかったこと」「やろうかなと思ったこと」「これからやろうと思うこと」は、なにやら同等の価値をまとっているのではないか、と。それらは、いろいろな色や材質の布片で織られる「裂織」のように、常に次のステップを進行形で作っているのではないか、と。極端に言えば「やるべきではなかったこと」さえ、アクセント色となって全体を引き締めている。
ひとりひとりのCl.の事例はもちろんかけがえのないものだが、その個々のセラピーの顛末に判定を下すのではなく、流れる模様のようにつながって回っている光景としてみることもできるのではないだろうか。そうすると、Th.とCl.はたまたまそういう役回りで出会ったけれど、実はいっしょに何かをわかろう、実現しようと「支え合って」同じ時空間を生き、人と音楽についての大きな知の一画を支えた「同志」のような感じさえしてくる。
少し話が抽象的になったので、コロナ禍の音楽療法に関する研究で、参加者が語った言葉をいくつか引用しよう。「(コロナや休止判断を理解できていないはずの)Cl.は、会えていなかった時間も、自分の中で何かを熟成させていた、それが再開時に湧き出てきた。」「コロナで休止や再開が繰り返されていたあの頃、“また今度ね”というセッション終わりの常套句が、これまでとは何か違う意味を持つようになった。」
セラピーの起承転結を物差しで測るような冷徹な目も持ちつつ、まったく違う目盛りの定規をいくつも作り続けられるセラピストでいたい。
▶︎音楽療法の「時間」をめぐる断片的エッセイ 2) Fragmented Essay around "Time" in Music Therapy 2)